昭和53年06月06日 朝の御理解



 御理解 第32節
 「女が菜園に出て菜を抜く時に、地を拝んで抜くというような心になればおかげがある。またそれを煮て食べる時神様頂きますというような心あらばあたることなし。」

 地を拝んで抜くような心になればおかげがあると、これはお野菜を頂く時だけの事ではないと思う。金光教の信心の、言うならばおかげを受ける、まあ秘訣のようなものだ。大地を拝むと言う事は、どこまでも大地を拝む。いうならば信心も出来ませんのにというその心。それを煮て食する時に、神様頂ますという心あらば、あたる事なし、さわる事がないと言う事。
 おかげを頂いてその頂いたおかげが、かえって災いをすると言う様な」事があります。どこまでもこの精神、本当に神様のおかげで、神様のおかげでと、信心も出来ませんのにとこの謙虚な心こそ実意な心だとこう思うのです。昨日研修の時に 昨日の御理解を頂いて皆が全部発表致しました。最後に若先生あんたは今日の御理解頂いてどう感じたか。もう云う事はありません。ただあいすまんの一言に尽きますと申します。太郎先生あんたはどげなふうに感じたかね。
 親先生ですら、これ程改まりの姿勢を示しておられるのにと感じましたとこういう。修行生の分際でこんなことでは相すまん。親先生でさえいうならば、もういつも改まりの姿勢、昨日の朝の御理解に、心でここでは神心、真心を説きます。又金光教の信心は仏教が慈悲を説き、キリストが愛を説くならば、金光教では神心を説くんだと。その神心を説くという まあ説いてもおった 思うとったけれども、私の心に親心が欠けておった事に気がついたというお話しを昨日聞いて頂いたですよね。
 親が肉親の例えば親子が親子を感ずる。親を親の思いを感ずるとか又は、親が子供に情をかけると言う様な事は 出けるんだけれども、三代金光様でしたか四神様でしたか ある無学の先生が学院卒業された時に「無学で何にも出けませんが、どういう心掛けになりましたら人をお取次助ける事が出来ましょうか」と言うてお伺いされた時に、金光様が、親切一つあれば助かりますとおしゃった。
 親切。親切とは、親が子を思う切なる心とこうある。親が子を思う切なる。ですから赤の他人の誰であろうが彼であろうがです。親が子を思う切実心ですね。それが私には欠けておったなあと、山口から参って来る信者のお届を読ませて頂いてから、私はそれを感じた。もう棒にも箸にもかからん息子を持っておりながら親の願いというのは、どうぞこの子にかけられた神様の願い、どうぞ五つの願いがこの子の上に成就致しますようにと切実に願っておる。
 その願いお届を私が見た時にです、私にはこれが欠けておったなあと。子供にかけるということなら当然の事なんだけれどなら、ここで私を親先生と呼んで下さる方達に一人一人に、本当にその親子の情をもって親子の心情をもってお取次が出来ておるか。はあこれは神心の真心とのいう前に、先ず親心が本当に使えれる信心の精進、それは誰彼にも使えれるという。そこに改まらなければ 磨かなければ 改まらなければなかなか他人の事までそんなに 自分の子供のように思われない。
 不思議に改まる、不思議に清まっていく事の精進さして頂いておるとそれができるようになるから不思議だと。そういう御理解を頂いて、井上太郎先生は親先生ですらこれ程改まりの姿勢を作っておられるのに、そのこと一言若先生が聞いて、皆の発表を聞かせて頂くよりも何よりも私は嬉しいねと言うた事でしたね。若先生が、親様にこれだけの思いをかけている思いをさせておる。もうただもう相すまんの一言につきるのだと。太郎先生が、親先生ですらこれ程いつも改まりの姿勢をとこう言われる。
 それはどう言う事かというと、私の信心でおかげ受けておるのではない、信心も出来ませんのに、神様がお使いまわしを下さって、言うならば神様が出けん所を出けたかのようにして おかげを下さっておるのは、合楽の御比礼だといつも自分で思うておりますから、この心の状態が信心には要ると言う事です。出来てもおりませんのに。合楽ではね。そういう思いにならせようとする働きがありますいつも。はっきり信心も出来んのに、この様にためにおかげを頂いてと言う様な その働きがおこるです。
 昨日一昨日でした。久富先生がもう親先生 本当におかげを頂いてから去年安藤さんのお世話で福岡に嫁入りました清美さんという娘ががおります。子供の時に小児麻痺でおかげを受けたというあの子です。けれどもおかげを受けて上がらん手が上がるようになったというてもやっぱりこれが発育がないわけです。小さいわけ。だからいうならば一人前ない。着物着ておれば分からんけれども一人前のその事は出来ない。
 そでこの子ばかりは、もう親がうだかんならんと思うとりましたということです。おやがうだかんならんという事は、一生この子は嫁に貰手はなかろうとこう思うとりました。それが安藤さんのおかげでいい所にお世話して頂いて昨日、一昨日夫婦で参ってまいりましてから。いま親御さん達と別居しとる。所がすぐ妊娠のおかげ頂きましたけれども流産でした。それで今度はおかげ頂かんならんというのでもう親御さん達が周囲が大変大事にして下さる。
 それがそのほんな向かいつも文夫先生がお導きして来る、その安藤さんという産婦人科が前にあるんだそうですね。そしてあのうそこのお父さんというのが、こりぁ久留米の安東さんですね、安東末男さん。安東さんが、自分が安東さんの日本ゴムに勤めておられた時の先斐であった。親子のようにつき合うている人であった。そういう関係のある合楽が安東さんであり、向かえが又 合楽へお参りなさる安藤病院という産婦人科であり、お仲うどが又直方の安藤さんという。
 こりぁもうほんと、やっぱあんたげんお父さんが 一生懸命金光様の信心して頂くけんおかげ頂いとるとじゃろもん、こんな嫁を頂いてというお母さんが喜ばれるそうです。信心が無かってもこれ程 安藤(安東)が三つ集まるならばやっぱこりぁ 不思議なこつじゃあるこれは おかげと思わにぁおれんようにある、それを久富先生が感じなさらんはずがない。
 それこそ久富先生が 本当に信心も出来ませんのに、子供の一人一人の上にもう本当に勿体ない程におかげを頂いて。この娘だけはもう親がうだかんならんと思うとる娘が、おかげ頂いて一人前に妊娠のおかげも頂いて。しかもそこがくずれくずれするのが、あのう義理のお母さんだったそうです。ですからそのお母さんがそれこそ根性がしっかりあんなさるとでしょう。
 皆があそこは義理のお母さんだからと、とやこう言われる様な事があっちゃならんと言う様な気性の方らしいですから。大事にしなさる事、勿体ない程大事にされるそうです。最近はそのお店に あのお伝いに行くんだそうです。清美さんが月々二十万づつやんなさるそうです。もうそれで夫婦で喜んで、昨日も帰ってまいりまして、その喜びよります。本当に信心も出来んのに、子供達が娘達がそうしておかげを受けておると言う事。本当に有難いと何回もくり返し、それを久富先生がいうておられますね。
 久富先生が信心も出来ませんのに というのは分かるけれども、信心のない向こうのお母さんでも、これだけ安藤さんが三方にある。そういう関係かかわりあいの中にあんたが 私の方に嫁に来てくれてとることは、こりぁやっぱあんた方のお父さんが金光様の信心をして頂くけんじぁろと言われるとこういう。そういう働きがいつもあるです。昨日は私はそれを本当に実感致しました事でしたけれども。
 昨日は壮年部会でした。それで昨日、一昨日の御理解を皆で頂きましたが、一人一人に二へんも三べんも四へんも頂いた人達が居るわけですね。ですけれどもあのう、頂くたんべんにその頂くものが違う感じが違う。そこで今晩の御理解を 昨日の御理解を頂いて どう感じたか、というてまあ一人一人に求めました。高橋さんがこう言うておられます。聞くたんびんに頂くたんびんに、どうしたらこれだけ短い三十分なら三十分という間に、これだけしかも大変な事、難しい事を、しかも分かりやすくどうしてこんなにお話出来るだろうかと、今日改めて感じたと言う発表しとりました。
 皆さんもそう感じなさらんですか。合楽の御理解を頂いて。親先生のどっからあげなお話しが出るだろうか。しかもなら頂きとめる所はこんなにも難しい。こんなにも大変な事をこのようにどうして話しが出来るであろうか。とてもとてもこれは親先生の話しとは思われんもう神様が話しござるとしか思われんという感じがです。私はおかげをキャッチするんだと思うのです。
 だからそういう働きの中に、合楽の皆さんがありますけれども、それが言うならばマンネリと申しますか、もう当り前のごとの様に。自分も先生が云われる事だけはもう一通り分かってる、もう先生の云いなさる事はこの事だと、だから分かっているね。だからその分かっているという人達がです、に限ってというわけではないけれども、分かっている人達が言うならば 昨日の御理解でいうと、金光大神あって神がこの世に出たと、神様が仰る様な思いをです。私共氏子の側がです。
 金光大神あって今日の私があるんだと思う実感が薄らいで信心がうすうなる。それを佐田先生が行っておりました。御理解を頂くたんびんに 言うならば 金光大神あって私共のこういうおかげを受けられるんだと言う事だけれども、なら合楽の親先生あって今日の佐田がある、と言う事を感じますと言う事を言っておる。そういう感じがもう巧者になったり、合楽の信心を一通りマスターしたという程しの人が そういう感じが少ないと言う事が、これは本当にあの悲しい事だけれども、残念な事でもある。
 これはどう言う事かというとね、言うならば信心も出けませんのに ちゆう心がないからなんです。信心がでけとるけんこれだけのこつが分っとる、分っとるからこれだけのおかげを頂きよると、こう思ってる。秋永先生がこう言ってました。今日の御理解を頂いて、はぁ自分の生き方がま違っていないなあ、と感じましたとこういう。だから私がそれを取って押えるように言いました。「あんたがね、言うならば、今日の御理解を頂いて、はあ自分の生き方は間違っていないな と思うと言う事が町がっとる
っとるよ」と。
 例えばなら 合楽建設の事なんかでも 私の思いが一つも通らん。だから自分なもう 御造営の委員長を私ゃやめて正義先生か 文男先生に替わってもらう。と言う様な変な事を言うから、私が昨日ちっとやかましゅう運うたんですね。自分の信心が間違ってないと言う様な考え方がです。間違っているんだよと。昨日昨日でしたか 一昨日でしたか 永瀬勝国先生がここに出て来てまいりまして 今日は父の誕生日でございます。お父さんな忘れとったげな。
 自分の誕生日は忘れとる。それで息子はちゃんと覚えとる。それでその色紙を、短冊を持って来て、あのう何もお祝いが出けんから、これをお祝いにしたいから何か一筆書いてくれとこういう。それで私があの和楽路、と書いてやった。和楽の路と書いて。路は「ろ」という字ですね。路、和楽路。そしてその短冊の裏にその意味を書いてやった事です。それから、又お父さん誕生日のお礼を、自分が忘れとったもんだから 誕生日のお礼に出てみえとる。
 金光様の御信心はね、いうならば和楽のおかげを頂きたい。けれど金光様の信心はね、自分が楽をしながら信心をしよう と言った事からは和楽は生まれない。和楽路である。もう足で稼ぐんである。金光様の御信心は。いうならば楽はせんぞという気持ちになって、させて頂く楽であって本当の和楽なんだ。もうさせて頂く楽というものは、もう何ともかんともいえん有難さが中にあるわけ。
 それこそ信心も出けませんのに。それを自分が楽をする楽をしようとする。そこに和楽は許されない。それが根本になるのは、いわゆる和楽路ばきの信心。足で稼ぐ信心。家業の業を行とする。心行をもってしかも日参教聴という所からもう絶対の路、それは日勝り、月勝り、年勝りのおかげが受けられる。そしてそれを真をもって信心の真をあらわしていくと言う事から、代勝りのおかげが約束されるんだと。
 皆さん合楽の信心はこれですよ。だがら私は昨日は申しました。私は昨日その御理解を頂いて、私が感じました事は、この御理解は皆さんに聞いてもらう時はそうじぁなかったけれども、昨日頂いて感じた事は、今度中近畿の大阪での私しの講演会があります。話を聞きますと、あのサンケイホールというのは、何千人という人が入る大きなホールだそうです。恐らくそれが一杯になるでしょうね。
 一教会に何千人と言う様な信者が居るような教会ですから。そしてしかも信者だけはなくて公開講演ですからいわゆる信心のない人達にもいうなら宣伝をして入れようという催しですから。だからそう言う様な事の後でしたからかもしれませんけれども、私は丁度昨日、一昨日のあの御理解ですね。御理解はその私がお話をする、一つのまあ前奏曲のような感じで、今日の私は御理解は頂いた。
 高橋さんが言われる様に これだけ難しい事これだけ大変名事をようも、この三十分間の間にこれだけお話が出来るもんだ というものを 私もやはり感じた。それであれは言うならば、今度私が大阪でお話をする、ならばそのお話のダイジェストである。というふうに私は感じたんです。それをならそれぞれに感じ方が違う。ははぁこれは今日の話しをきいて、私の信心は間違ごうておらんと思うだとかね。
 はぁ本当に親先生あってというふうに思うだとか それぞれに感じ方は違うに致しましてもですね。本当に信心も出けませんのに かくおかげを頂いて、その心掛けがあればおかげになる。いうならば大地を拝む様な心なんです。そしてそれを煮て食する時に、神様頂きますという心が、あたることなしという、そういう心の状態で頂いたおかげならば、その頂いたおかげが怪我の元になる。その頂いたおかげがおかげ落としの元になるという様な事はないと、いうふうにまあ頂かなきゃならんと思うね。
 合楽ではそういうね、そういう本当に信心も出けんのにおかげを頂いて と言わせずにはおかん。思わせずにはおかんという働きがあっておるけれども。自分の心がマンネリになったり、自分の心がもう出けたかのように思うとです。それを感じとりきらん。こうすれば親先生が喜ぶこつは分っとるけれども。あまりにもまあ言うならば大人げないと言う様な意味の事を 行っておりました。もっと別な言葉でしたけれども。
 親先生がこうすりゃ喜ぶ、文男どんか親先生々々、親先生が喜ぶ事を心得て彼は実行する。けれどもそげなこつはもう問題じぁない。そげな事は例えば 親先生が喜んでもらうけんで。成る程喜ぶ、けれども私が喜ぶ事は必ずおかげにつながる。私はそう確信する。だから私ぐらいに、一生懸命に合楽の事を思うとる者は居らん。私は今度の合楽建設に命をかけとる。
 これは嘘じぁないでしょう本当でしょう秋永先生は。けれどもね。和楽路に現らわさなかったら言うたり、思うたりしとだけなんです。自分のいうとる事が通らんからね。もう委員長を止める。文男先生か正義先生がするかよかたい。というふうな言い方をするけれどもね。そこに先生あんたが、もういっちょ反省せにぁん所がありぁせんか。出けん。出けんけれども。この御用だけは、私の一生一代の御用として 頂かせて下さいという姿勢がいるんじぁないかね。秋永先生というてまあ話した事。
 どうもあの人じぁどうもいかん。と例ば言われてもです。そんな事誰も言う者はありあしません。又秋永先生のなら右に出る者はありあしません。そりあ文男さんが勤めても、正義さんがつとめても、秋永先生のごとさばきゃきりません。だからあんたばっかりはほんに自分じなからにぁ出けんと思うとってから、そげなこつばいうと言ってから、私が言う訳ですよね。
 いいえそげなこつはありません。いんにぁあんたがそげん思うとる。と私が言う様な事で皆んなびっくりしてからですね。けれどもね、私がこうやって言うのは私が一番最後に私しが締め括って言う事はです。本当に合楽理念を以てこういう修行をして、こういうおかげを頂いたと、いう実証者が私は欲しいんだと。なら私今度大阪にお話しに行くでもです。私の合楽理念というのをマスターして、こういうふうに行じていったら、こういうおかげが頂ける、という信者が沢山出来なければ出来ん。
 そういう意味で、末永先生にぁ本当に頭が下がる感謝しとる。たった半年じぁあるけれどもね。それこそ海外布教は合楽理念をもってする他なしという、体験を積んで来て。それが事実で事実の実証がある。証がそこにあるという所にです。だからね皆さんがねおかげの証を立てて下さらなければ 私が行ってお話しが空論になるです。恐らく私が行ってお話しをしたら、これがもう恐らく全国に広がる事でしょう。そしてはあ成る程ほんなこつならいっちょ合楽に行ってみろと言う事になってくる。
 そしてそういうおかげの事実が、そこ なからなければ私の言う事が空論になる。そん為にもおかげ頂いてもらわんならんけん、こげん良いよるとばい。そして又いつもの事ながら驚きました。私がやすませて頂いてからすぐ、繁雄さんと文男さんが足もみに来ました。途中からもうそんな遅うから、テレビを引っぱりよりましたら、鞍馬天狗がありよるとです。ほう私が思いを、もう神様が画面で見せて下さるなあと思うた。
 しかもそのね、嵐寛寿郎に鞍馬天狗といやぁ、此頃から御理解頂いたでしょう。それば今の鞍馬天狗は竹脇無我という人がやってるんです。私が今日秋永先生にやかましゅう言うたけれども、是は未永先生が後に言ってました。まあようあれだけの事を親先生が言われる事だと信徒会長つかまえて。けれども親先生に私心が無いから、あれだけの事が言えるんだ、と言ってます様にですね。所謂無我私が無いから言えれるんです。
 問題はねどんなに私の事を思うてくれて 私に尽くしてくれても、私はどうも問題じぁない。問題はそうする事によってあんたがおかげ頂かんならんけん言いよるとばい。総代が幹部が私がいつも言う様に、あんたどんにはいっちょん頼っとらんとばい。けれどもあんたどんが一生懸命御用さして貰らよりゃ、あんた達がおかげ頂かならんけん言いよるとばい。親先生がこげんすりぁ喜ぶだけじぁない。
 親先生が喜ぶ事すりゃ必ずそのお返しがある。そこん所を私は確信して言いよるとよ。と言う事でしたけれどもです。昨日のその無我主演する所の、無我でしたけれども、昨日はねあれは何んとかいう、品川隆二ちかなんとかいうのが居りましょうが。ちょっと三枚目がかった。あれが鞍馬天狗の弟分ちゅうとをしとった。もういっちょん変わらん、白馬に乗ってから駆け回る所です。どっちが鞍馬天狗じゃら分からん。ははあこれが秋永先生のこつばいのと私は思うた。
 ちょっと三枚目がかってもう親先生と同じような言うならば言うたり行うたりしきるのはこの人おいちゃなかろうと私は思うんです。いうなら私の影武者でもあり、又は代弁者でというてもよいと私は思うくらいに なら秋永先生の事は私はそう信じてるです。ははぁ今日品川隆二演ずる所の 言うならその鞍馬天狗の身代わりになって、えらいその剣術の方もきいとるとですもんね。
 それが白馬に跨ってあの覆面をして走る時にゃ、そのどっちが鞍馬天狗じゃら分からんごたる。という私はその画面をほんなちょっとの時間じぁあったけれども、見せて頂いてもう神様の働き、はあ本当にさっきから言う様に、合楽の信心というのはね、私共が心掛けさせて頂いとると、そういう生き生きとした神様をそこに感ずる事が出来る。そして信心も出けんのにこの様なおかばいを下さり、この様なおかげが頂けれるというその信心がです、大地を拝んで抜く様なものではないでしょうか。
 今日御祈念の時に、美味しそうな竹輪が沢山こうつんである。まあだ中の竹が抜いてないやつもある。抜いてあるとのこう積んである所を頂いたんです。皆さんがおかげを受けておる、神様が向う先を竹輪というのは、神様が向う先が、れんこんくうて下さる、信心も出けんのにおかげを頂いておる。そん変わりまだ竹が抜とらんとがいま難儀しよるとじぁん。まあだ竹が抜いちゃなかもん。けれどもこの竹はもうすぐ抜いてもらえるという信者で一杯なんだと合楽では。だからどんなにおかげ受けたからというてね。
 金光大神なかりせば、親先生なかりせば、こりゃどうぞみなさん大坪総一郎に、恩きせがましゅう言うのではないですよね。皆さんが親先生のおかげで、今日の私があると言う時に、おかげとの交流が必ずあるんです。所がです。自分達が分かったから自分達が信心が出けたから、おかげを頂いたかの、そこにはおかげもなからなければ、信心も出けませんのにという事になってこない。
 いうならば大地を拝むような心が抜けてくる。大地を拝むような心そしてそれを、そしてそれを煮て食する時に、神様頂きますという心あらばあたる事なし。そのおかげを頂きますという心あらばです。そのおかげが、おかげが又怪我の元になったり、おかげがかえっておかげ落としの元に成る様な事はないと言う事をです。今日は三十二節から聞いて頂きましたですよね。
   どうぞ。